「毛布10枚、カップ麺4つ」から考える 日本の震災対応に決定的に欠けているもの
140人の集落に届いた「驚がくの支援物資」
2024年元日に発生した能登半島地震。ドキュメンタリー取材で発災の翌朝から穴水町に入った。今も脳裏に焼き付いていることがある。それは、その後に制作した番組や映画では一切使うことがなかったシーンだ。でも、ある意味、あの震災の発生直後の問題が凝縮されたものだったと思う。発災3日目の夕方、車を走らせながら寸断されていない道をなんとか探し当て、岩車という孤立した集落の避難所にたどり着いた時のこと。住民たちが「ようやく役場から物資が届いた」と教えてくれたのでその内容を尋ねると「毛布10枚とカップ麺4つだけだ」という。当時、その集落には約70世帯 140人が暮らしていた。そんな理不尽な話があるのかと、写真を撮ってXに投稿するとたちまち拡散され、インプレッションは109万にのぼった。災害発生直後のこうした話は、この国でずっと繰り返されてきた。

2024年1月3日 石川県穴水町にて筆者撮影
内閣府の資料によると、能登半島地震の発災から約3カ月間に、国はプッシュ型支援として食料350万食、飲料170万本、仮設トイレ840基、生理用品10万枚、毛布4万7000枚、ストーブ150台など43品目を被災地へ送っている。数字だけ見れば、支援は行き届いているように思う。しかし、実際に被災地で問題になっていたのは、物資が最も必要な発災直後に、必要な物資が圧倒的に不足していた現実だった。
避難所の立ち上げや運営も混乱に陥った。発生から一夜明けた1月2日朝の時点で、穴水町では既に多くの避難所などでトイレの衛生環境が崩壊していた。便器から排泄物が溢れて使えない状態となり、仮設トイレを作るために奔走する住民の姿をたびたび目にした。その後、ノウハウを持ったNPOやNGOが被災地に入ってきて様々な支援と指導をしてくれるようになり、一部の避難所でようやく生きるための環境が整い始めたのが一週間ほど経ってからのことだった。取材で出会ったあるNPO職員の言葉が印象に残っている。
「避難所の運営を軌道に乗せるのに最も効果的なのは、誰もやりたがらないトイレの清掃と復旧を率先してやることですよ。すると、避難者の方々は外からやってきた私たちをすぐに信頼してくれます。アドバイスをよく聞いてくれますし、みんな積極的に協力してくれるんです」
能登で機能しなかった“プッシュ型支援”
発災直後の被災地に支援物資が行き届かなかった要因としては、動脈が少ない半島で幹線道路寸断と海岸隆起が重なり、陸路と海路での輸送が困難になったことが大きい。加えて、石川県の防災計画の甘さもあった。県の防災計画は1997年以降改定されていなかった。志賀原発関連の会議ではマグニチュード8.1の場合の被害状況が話題にあがり、県も能登半島地震(マグニチュード7.6)の震源とみられる断層の存在を把握していた。にもかかわらず、マグニチュード7.0の想定で作った防災計画を変更してこなかった。その結果、軽く見積もられた被害想定に基づいて、各自治体が防災計画を作ることとなった。ところが、想定をはるかに超える地震が起こってしまい、備蓄が足りず、人も足りず、“県と各自治体”や“自治体同士”の“横の連携”も機能しなかった。
これを「想定外」で終わらせてはならない。日本は阪神淡路大震災、東日本大震災、平成28年熊本地震など数々の震災を経験し、物資輸送や避難所運営、広域応援の知見を積み上げてきた。それでも能登では、多くの人たちが「物資が届かない」「自分たちは後回しにされている」と感じていた。被災地を漂うそうした言葉は、震災対応の仕組みが住民の暮らしにまで届いていないことを示している。
被災地からの具体的な要請を待たずに必要と見込まれる物資を国が送り込む“プッシュ型支援”については、その支援が役立ったかどうかは数字だけでは評価できない。被災者にとって、本当に必要な時に、必要な場所に、必要な形で、使える状態で届けられなければ、支援の意味は薄れてしまう。
10年前と同じ場所で起きた「目詰まり」
熊本地震は発生から3週間が過ぎた。能登半島地震に続き、政府による“プッシュ型支援”が発生直後から行われているが、最初の1週間で早くも目詰まりが起きたという。