「それは間違いだ。つべこべ言うな」 B-29元乗組員から突きつけられた“異見”
なぜ富山は徹底的に焼き尽くされたのか
太平洋戦争終盤の富山大空襲は地元では毎年語り継がれてきましたが、日本全体に目を向ければ、その実態が広く知られているとは言えません。米国ではなおさらです。ニューオーリンズの米国立第二次世界大戦博物館には、原爆を投下した広島と長崎の写真とともに、燃え上がる富山の写真が展示されています。しかし、その理由を来館者に尋ねると、原爆が落とされた都市だと勘違いする人や、富山への空爆そのものを知らない人がほとんどでした。広島と長崎については学んでも、それ以外の日本の都市がどのように焼かれたかは教わっていない。それが多くの人の率直な反応でした。

米国立第二次世界大戦博物館に展示された富山大空襲の写真【2016年8月13日 筆者撮影】
米軍にとって、富山大空襲は決して小さな作戦ではありませんでした。終戦間際、米軍は高い位置から軍事施設を狙う「精密爆撃」をやめ、低空で爆弾をばら撒き、街をくまなく焼き払う「住民標的爆撃」へと戦略を転換していました。富山への攻撃は、その戦略が地方都市にまで徹底されていたことを示す象徴的な作戦でした。2016年10月に放送したドキュメンタリー番組『異見 米国から見た富山大空襲』では、戦争を終わらせるという大義名分のもとでエスカレートした住民標的爆撃の延長線上に、広島と長崎への原爆投下があったことを描きました。日米の国民にあまり知られていない富山大空襲ですが、米軍の航空戦史においては大きな意味を持つ爆撃だったのです。
爆撃目標は「軍需工場」でなく市街地だった
1945年8月2日未明、B-29の大群が富山の市街地に約52万発の焼夷弾を投下しました。111分間の爆撃で目標範囲内の破壊率は99.5%に達し、約3000人が犠牲になりました。番組では、当時12歳だった男性が描き残した31枚の絵を通して、母親を目の前で失ったことや川が焼死者で埋め尽くされていたこと、子どもを抱いたまま亡くなった人々の姿などを伝えました。
しかし、惨状を記録するだけでは、なぜ富山がこれほど徹底的に焼き尽くされたのかは見えてきません。米軍資料に記された攻撃目標は、市内有数の軍需工場ではなく、富山城跡を中心とする半径約1.2キロの人口密集地でした。当時、米軍は日本の180都市を人口順に攻撃対象として選定し、16万8000人が暮らす富山市を36番目に位置づけていました。
ワシントンの米国立公文書館の取材では、さらに重要な資料を発見しました。富山への出撃日に行われた陸軍航空軍の式典のフィルムに「創設38周年を祝うこの日に祝賀爆撃を行う」と宣言する映像が残されていたのです。
「空軍38周年の本日。世界にも例を見ない史上最強の空軍力を持って日本との戦闘の最終段階に入った。我々の日本への攻撃のテンポを、あらゆる手段を使ってステップアップさせる。そこで、日本をやっつけるためにB-29の数を2倍にして、爆弾も2倍落とす。日本の司令官たちが無条件降伏に追い込まれるまで、日本帝国を爆撃し続ける」
この日、出撃したB-29は858機。うち183機が富山へ向かいました。富山を含む4都市への空爆には「最大兵力の投入」が決められていたのです。 低空からの無差別爆撃の指揮をとったのは、陸軍航空軍の司令官、カーチス・ルメイでした。そのルメイに対し、日本政府は戦後「航空自衛隊の創設、育成に貢献した」として勲一等旭日大綬章を授与しています。国家元首を除く外国人としては最高位の勲章です。富山をはじめ日本の都市を徹底的に焼き払う作戦を実行した人物を、戦後の日本が最高位の栄誉で讃える。なんという矛盾でしょうか。でも、これこそが戦勝国と敗戦国のあいだに横たわる現実なのです。
富山を爆撃した19歳の米兵が生涯背負ったもの

エドウィン・ローソンさん(左から3人目)が所属した小隊の写真 【2015年7月6日 筆者撮影】
番組の取材において最も大きな存在となったのが、富山を爆撃したB-29の元乗組員、エドウィン・ローソンさんです。19歳で陸軍航空軍に入隊し、機銃手として太平洋で任務に就きました。富山への出撃は彼にとって最後の任務でした。住民を標的とした低空からの爆撃については、「ばかげている」と思っていたが「命令だから従った」と語りました。
「ほとんどの兵士は軍の方針や決定について何も知らなかった。19歳の小僧には計画が何で、その理由なんて分かるはずがない。軍の任務では言われたことをやるだけだ」
その言葉は、国家の命令と兵士個人の意思との間にあった厳格な隔たりを浮かび上がらせます。ローソンさんは、自らの任務を単に正当化する人ではありませんでした。前年に制作した富山大空襲の検証番組を、B-29乗組員とその家族が集まる戦友会で上映しないかと提案してくれたのも彼でした。日本で起きていたことの背景を米国人がどれほど知らなかったかを認め、「一つの事柄について違った見方があることを理解するために、歴史を教えることが大切だ」と語っていました。戦勝国と敗戦国では、同じ事実でも見え方や意味づけが異なる。だからこそ、互いの考えを知り、その違いがなぜ生まれたのかを理解しようとするプロセスの必要性を訴えていたのです。
こうした姿勢の陰には、戦争が生涯に残した深い傷がありました。それを知ったのは、彼の自宅でのインタビュー収録が長引き、休憩時間に「庭を案内するよ」と誘われたときのことでした。木漏れ日が降りそそぐ広い庭園の芝生は、きれいに刈り揃えられていました。そのふかふかの絨毯の感触を確かめるように、ローソンさんと私はゆったりと歩みを進めました。
「ここには鹿が出るんだ。いつもこの時間までに森からやってくるんだ。たくさん来るときもあるよ。そこらじゅうにリスもいるんだ。白と灰色のリスだよ」
時折、二人のあいだをそよ風が通り抜け、小鳥のさえずりが耳をやさしく撫でてくれます。同じ世界で戦争が起きていたこと、起きていることが嘘のようにおだやかな昼下がりでした。
「ここを散歩している時に、戦争のことを思い出しますか?」
「毎日思い出すよ。私に起こったことはまだ話していなかったよね。私が空襲で負傷して入院した翌日、私のクルーは名古屋で墜落したんだ。その後、私は退院して任務に戻った・・・生存者症候群(サバイバーシンドローム)という言葉を聞いたことがあるかい」
彼は足を止め、静かに首を横に振ると、言葉を詰まらせました。
「ナチスの強制収容所で生き残った人たちも、なぜ自分が生き残ったのか戸惑った・・・」
やわらかな風が吹いていた森に重い沈黙が押し寄せてきて、私は耐えきれなくなりました。
「戦争の経験を言葉で表現するとしたら?」
「忘れないということだ・・・彼らは無駄死にだったのかい」
ローソンさんは自分だけが生き残ったことへの罪悪感に苛まれていました。攻撃した側の傷と被害者の痛みを同列に扱うことなどできるはずがありません。それらを比べることに意義があるとも思えません。それでも、爆撃命令を受けた若者がその後の人生で背負い続けたものにも目を向けなければ、戦争の実像には決して迫れません。
富山が燃えた日、爆撃手には「別の日常」が流れていた
テネシー州で取材したB-29の爆撃手、チャールズ・マコイさんの証言は、ローソンさんとは異なる角度から戦争の実態を示すものでした。富山市上空に最後に飛来したマコイさんは「爆弾投下と言った時には、街は既に破壊され尽くしていて、爆撃する必要がなかった」と振り返りました。任務中に罪の意識はなかったとも語り、「我々はただいい気持ちで無敵だったんだよ。あの時代、あの時、やるべきことをやった。権力者に従わないわけにはいかない」と打ち明けました。
当時「超空の要塞」と呼ばれ、日本を焦土と化したB-29にはエアコンが完備され、高度1万メートルを酸素マスクなしで長距離飛行が可能でした。
「機体の後方にトンネルがあるから、そこへ行って昼寝をするんだ。ナビゲーターに『爆撃地に来たら起こしてくれ』と頼んでおくんだよ。この頃には戦争は終わっていた。実質的に終わっていた。楽な偵察飛行のようなものだった」
富山に出撃した日のマコイさんの日記は、こう綴られていました
「8月2日。ミッションから午前10時35分に帰還。小隊のパーティーでクラブに行った。ナースたちと数回踊った。仲間2人はナースと連絡を取っていて、抜け駆けをされた。冷たいシャワーで1日を終えた」
富山では市民が炎の中を逃げ惑っていた同じ日、海の向こうには全く別の時間が流れていました。日本アルプスを背景に飛行するB-29の機内でリラックスして本を読む兵士や、硫黄島で海水浴を楽しむ兵士の映像からも、米軍側に漂う余裕が読み取れました。そうした違いから、終戦間際の戦勝国と敗戦国の日常がいかに隔絶されたものだったかを描きました。

チャールズ・マコイさんの日記【2015年7月8日 筆者撮影】

富山大空襲から帰還した日のマコイさんの日記【2015年7月8日 筆者撮影】
「政府にだまされた」
富山大空襲は、米軍の攻撃だけを見ても実態を捉えきれません。空襲の前日、米軍が上空からばら撒いた爆撃予告ビラは4万5000枚。その大半を日本軍が回収し、市民に危険を知らせませんでした。当時の政府は空襲時の対応を法律などで定め、「焼夷弾を落とされたら、逃げずに火を消せ」と指導していました。それがいかに非現実的な対策であるかは、米軍に圧倒的な量の焼夷弾を投下される以前に明白だったはずです。
東京の国立公文書館には、富山大空襲の直後に特別高等警察、いわゆる「特高」が富山市民の思いを聞き取った機密資料が残されています。当時「特高」は社会運動などを取り締まり、拷問も辞さないことで知られていたため、「特高」の聞き取りには本音を言わないのが常識でした。ところが、破壊率99.5%の空襲にさらされた市民は感情をそのままぶつけていたのです。